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寂寥

登幽洲台歌 (陳子昴) 前不見古人 後不見来者 念天地之悠悠 独愴然而涕下  ひい、我が家を群れの住処としてくれてありがとう。いつも私を見つめてくれてありがとう。私が苦しいとき、そっと寄り添ってくれてありがとう。こんな私を信じてくれてありがとう。  私には妻とひいしかいない、と思う。往々にしてではなく、最近は常々と。  私がそのほかの人々を嫌ってこのように思うのではない。むしろ逆であり、皆から好まれていないと考えずにいられないのだ。私は他の人が普通にできることが、できない。普通のつもりでやって、いつも相手を混乱させたり不快にさせたりする。だったら何もしなければよいのだが、生きている以上、眠ったまま暮らすことはできず余計なことをするはめになる。  大人の世界には言ってはならないことがある。ほんとうのことは、誰もが胸に仕舞ったままにしている。そして、本心よりすこしだけ大っぴらにできることを口にする。本音とは、実はこんなものだ。私には、この二つの区別がうまくつかない。胸に仕舞ったまま通り過ぎるのは許せないと勝手に信じ込むこともあり、こんな常識がない者は厄介で面倒な生き物としか思われなくなるのは当然だ。  したがって、妻とひいがそばに今いてくれることを稀なる幸せとしなければならない。どんなにきれいごとを言ってみたところで、人は利害関係で群れをつくり、群れを別にする。「利」より「害」がひとつでも勝れば、互いの距離は一気に遠のく。「害」と呼ぶほどの程度でなくとも、眉間に落ちる天気雨の一粒のように些細な不快感がよぎれば縁は切れる。まあ大人同士は、そこのところを騙し騙しやりくりするものであるが。  犬は敏感に場の空気と相手の本性を読みとる。  私は何十年と生きてきた間に、ここまでに書いてきた自虐を何度か否定し、それでも真実だろうと思わずにいられなくなり、この歳になって茫漠たる寂寥感が心を満たすに至ったが、犬たちを見ていると一瞬にして愛を共有できる者か否かを見分けているとしか考えられない態度を取る。  犬は双方向に交わしあえる愛しか信じない。信じられない者と、関係を結ぶことはない。犬は食べ物を与えるだけで懐く動物ではない。生きるのに不可欠な食べ物にさえ勝る、愛され、愛する実感がなければ相手を、そして群れを信じない。問題があれば、「ここから立ち去れ」、

ひいのオトウからのお知らせ

写真集「HUMIDITY 水脈上のアリア 特装限定版(2013年7月30日刊)」 A3変形版・全100P・99カット ISBN978-4-907403-10-2  C0072  ¥8200E UKIYO photography ご注意:特装限定版のため部数に限りがあり、全国規模では書店店頭には並びません。 (表1)   (表4)

I fear tomorrow I'll be crying.

 ひいの姿を期待されたかたには、今回はこのまま読み続けても彼女の写真が現れないことをお断り申し上げておく。そして英語のタイトルをつけたのは気取りでなく、ある曲の歌詞を思い出さずにいられなかったからにほかならない(Epitaph/作詞・Peter John "Pete" Sinfield)。 「明日を恐れて泣いているだろう」。まさに、いまの私だ。  いいがかりで逮捕され七年間にもおよぶ裁判で時間を無駄に費やされた才能あるプログラマが、私より若い年齢で亡くなられた。旅客機が着陸に失敗し犠牲者を出した。子供が性的搾取されるのは言語道断だが、諸外国の例をみても実効性がないばかりか、矛盾だらけの表現規制法案がまかり通りそうになっている。人の人生と命をなんとも思わない人格異常者が、選挙で当選するのが確実となっている。アスリートの女性が産んだ子の父親は誰かと、報道の責任やら倫理感やら正義ぶった顔をしてマスメディアが騒ぐ。これが、つい最近の、あるいは今日の出来事だ。  私に何ができるのか。何もできない。こうして声をあげたところで、さらに大きな声と大きな力にかき消され、何もなかったも同然になる。私はここにいる。しかし、存在しないも同然だ。  今日、ひいは散歩から戻ると腰砕けになり熱中症の症状をみせた。すぐに保冷剤で動脈を冷やし、水で薄めたアイソトニック飲料を飲ませた。呼吸は落ち着き、体温は下がり、間もなく家中を軽やかに歩き回れるまでに回復した。しかし暑さと湿度を配慮してやれなかった自分を、私は責めた。群れの愛するもの、私を愛しくれるものに、ひどいことをした。  政治やら世の中やら大言壮語し悲壮感を覚えた身が、このありさまだ。  明日への希望、なんていまは考えられない。気付いてやれなくてごめんと、ひいを抱いて横たわるのみ。

黒いランドセル赤いランドセル

   ベランダから朝の空をぼんやり眺めていると、家の前の道を小学生の女の子が慌てた様子で駆けて行った。遅刻しそうだったのだろう。  ランドセルにカバーがかけてあり、何か書かれていた。そういえば数日前のニュース映像の端っこに映っていた子供たちのランドセルにも、「交通安全」の標語が印刷されたカバーで覆われていた。いまどきは、カバーをかけるのが当たり前なのだろう。世の中は小さいところまでいろいろ変わる。四十年以上前に小学校に入学した世代だから妙な感慨を抱いたわけだが、彼女が視界から消えたあとカバーの下のランドセルが黒かったのが心に引っかかっているのに気付いた。  いまは女の子でも黒いランドセルを選ぶのか。  そういえば最近は、水色、緑、ピンクと様々なランドセルが売られている。  私が小学校四年生のとき、茶色のランドセルを使っている同級生がいた。彼は、ランドセルが茶色いことでずいぶんいじめられていた。男子は黒、女子は赤、これ以外はあり得ない時代だったというか、認められない変なことだったのだ。ここ何年かは、まあ黒、赤が無難、ほかの色にするなら長く使うものだから後悔するなよ、くらいのランドセル選びなのではないか。  もしかしたら若い人には信じられないかもしれないが、男子は黒、女子は赤という規範からはずれるのは、下着で町を歩き回るくらい異様だとされていたと言っても過言ではない。革の色として一般的な茶色であっても、いじめられる時代がまちがいなくあったのだ。  私のスマートフォンケースは赤だ。机の上の温湿度計は赤みが強いオレンジ。以前、乗っていたバイクも赤。これらが異様に思われることは、たぶんないだろう。だから、小学生が何色のランドセルを背負っていても、銘々、好きずきであってよいはずだ。ランドセルが性別によって黒と赤しか認められなかった時代は、くだらないことに縛られていたのだ。  そしていまも、気付いていないだけでくだらないものごとに私は縛られているのだろう。  ひいは女の仔だ。なので、胴輪は赤を選んだ。首輪の地色は緑が似合うと思ったが、かわいいミツバチの刺繍が入ったものにした。さて、男の仔だったらどうしていただろう。  私はひいに「おまえは、かわいい女の仔だ」と声をかけている。ここには女はこうあるべき、という思いがある。合わせ鏡の向こうに、男はこうあるべきとする気持ちがあ