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2月, 2013の投稿を表示しています

つらいから、やきもち焼きます

 犬を何匹も集めふたつの組に分けて同じことを命じ、一方にはご褒美としてソーセージを、もう一方にはパンを与える研究が行われた。双方、相手側がご褒美に何をもらっているかわかるようにすると、同じことをしてもパンしかもらえない組は次第にいじけ、ソーセージ組を嫉妬した。当然の反応と感じるが、犬にも平等を求める気持ちがあることがわかったと、この実験から研究者は結論づけた。  人と犬が同じくらい不平等に敏感だとしても、皆がみな等しかったことなんてあるだろうか。  この世に平等はない、と言い切るとすこし気が楽になる。  その人が持っている性質つまり個性を尊重しようとする態度と、人は生まれたときから平等であるとする考えは矛盾する。一人として同じ人間はいないのだから、生まれた瞬間から良くも悪くも差がつく。この違い、この差を、他人がどれだけありがたがるか、邪見にするかは時代や国や立場によってまちまちだ。どんな人間として生まれるかだけでなく、生まれてくる時代と場所を選べないのだからどうしようもない。  とはいえ不平等のまま楽しく暮らせる人はほとんどいないので、どこかで扱いを調整することになる。どこで、どれだけ調整するかが難しいし、あちらを立てればこちらが立たずで、望む通りに釣りに合いが取れるとは限らない。だから、この世に平等はないと最初に言い切っておくと、余計な幻想を抱かずにすむ。  ただし、これを他人に押し付けると角が立つ。自分がひっそりと、しかしはっきり意識しておけばよい性質のものだ。  定食屋で常連だけおかずの盛りがよい、というのも不平等だ。でも常連はここに至るまで店にお金を払い続けてきたわけだし、店としては常連の好き嫌いや食べる量をわかっているから手加減できる。一見(いちげん)で、しかも食べ終わってから文句を言うかもしれない客に、特別なサービスがつかなくて当然だろう。要は、常連だからといって盛りをよくしろと求めたり、自慢したりせず、一見であるなら差別されて不平等だと声を荒げる必要もないという話だ。  と書いておいて、ここまで達観しきれない自分がいる。  そして、ひいもまた悩める一匹なのだ。  妻と他愛もない話で盛り上がっていると、どこからかひいがちょこちょこ現れ、私に何度も飛びついてくる。いつもとは限らないが、珍しい出来事ではない。「オカアばっかでなく、私とも!」といったとこ

やれることしかやれないけれど

 すこしばかり離れたところへクルマで妻と買い物に行った帰り道、なんとなく音楽を聴きたくなりカーオーディオのスイッチを入れた。CDチェンジャーは、前回、聴きかけだったニール・ヤングのアルバム「After The Gold Rush」の「Tell Me Why」を曲の途中から奏でた。  やぶにらみの目つき、おしゃれとほど遠い小汚い服装、美しいバラードと激しいロックのコントラスト、繊細な詩、上手いのか下手なのかよくわからないギターソロ、911テロ直後にジョン・レノンのイマジンがアメリカで政治的だと自粛されていたが追悼番組で堂々と歌いきった男。バンークーバー・オリンピックの閉会式で、聖火が消える直前にマーティンの生ギターを提げオオトリとして登場したことで、ニール・ヤングをはじめて見て聴いた人もいるだろう。  私は揶揄するつもりでなく、好きであるゆえの感想として「変な声だよな」と助手席の妻に話しかけた。「ロック向きの声じゃない。か細いようで、音域が高くて、でも説得力がある声をしている」  すると妻は、 「歌がとっても上手いわけでもないし。でも、いい曲を書くよね」  と返した。  物干し竿から下ろしたばかりの洗いざらしのジーンズのやさしさ、日に焼け擦り傷がついたヌメ革の財布が醸し出す正直さ、といったものがニール・ヤングにはある。  ニール・ヤングより歌が上手い歌手は何万人、何十万人といるだろう。ギターをなめらかに弾きこなせるギタリストも、やはり同じように数多くいる。しかし、ニール・ヤングのように支持され、ロックの殿堂に入れる者はとても数すくない。  もし、若き日のニール・ヤングに「君はボイストレーニングからやり直さなければ駄目だ。一般的な発声法と音程の正しさを身につけろ。ギターも運指の癖を直さなければプロとして通用しない。デビューはそれからだ」とプロデューサーが指示し、彼が従っていたらどうなっていただろう。それはそれで並以上の音楽家になったかもしれないが、四十年以上も生き残る曲を書き、さらに書き続け、歌い続ける人とはなっていなかったはずだ。このように指示されたり、そうしなければならないと自分で決め、消えて行った人は各界に多い。  一般的で正しいとされるものを学び、自らのものにし、これによって世の中から評価されるようになる人もいる。これが求められる場もある

おやすみ、朝までいっしょだ

 きなくさいニュースが毎日のように伝えられている。かの国の外務省報道官の女性は動揺と怯えを隠しきれない怒ったみたいな顔をして、自分たちは何があったか知らないと言った。関係部署に訊いてくれ、と言った。知らないはずはないのだけれど、偉い人たちでさえ手に負えない泥沼に片足を突っ込む者たちがいて、おおっぴらにするととんでもないことになるのだろう。 喧嘩と戦争は違う。私が誰かに諍いを仕掛けて勝った負けたと騒ぎになっても、やったことの大きさだけの因果が己に巡ってくるだけだ。しかし戦争は、首謀者を何人捕らえても、何人絞首台に送っても、罰というかたちで彼らが責任を取れるものではない。数多くの見ず知らずの者を不安にさせ、殺し、支配する上で、端から相手の事情を斟酌するつもりなどない。  どうでもよいニュースも毎日のように飛び交っている。若い芸能人の女の子が男と付き合っているとか夜遊びをしたと証拠を突きつけられ、なぜか坊主頭になった。自分の意志か、誰かの助言か、商売の都合なのか知らないが、とにかく彼女は坊主頭になった。若いとはいえ子供ではない人が誰かと交際するのは自由だし、坊主頭になるのも勝手だが、わざわざスキャンダルを暴きたてる者がいて、謝罪と称して女が頭を丸めるという癇癪玉なみの気障りな破裂音を響かせ、髪を切った事実を公開する手はずを整えた大人たちがいる。  くだらないと片付けて終わりのはずの出来事だが、何か嫌なものが澱となって気持ちに沈殿する。相撲と歌舞伎に素人は近づくなと昔から言われていて、これらの世界は常人の感覚が通じず、巻き込まれたら碌なことがない。現代だったら、ここに芸能界とスポーツ界が入るだろう。身内の世界を暴露して、暴露こそ好奇心の発端だから人は騒ぎたて、誰も後先のことは考えない。くだらないことが圧倒的多数を占めるのが浮き世で、くだらいなものは忘れ去られたあともじわじわ浮き世を浸食し続ける。これを人気とか影響力とか実績と呼ぶ人たちがいて勘違いも甚だしいが、そういう世界があるのも事実だ。  どちらの話も、我が家の外の出来事だ。  だが我が家もフローティング・ワールド(浮き世)とともに漂流する小さな群れだ。浅井了意の「浮世物語」(1659〜66年の間に成立)に曰く、「当座にやらして、月、雪、花、紅葉にうちむかひ、歌をうたひ、酒のみ、浮きに浮いてなぐさみ、

血脈

 初対面のとき、ひいは単なる洋犬の雑種にしか見えなかった。だが、ともに暮らしてみると顔貌にジャーマン・シェパードの特徴が感じられ、シェパードの血が入った雑種ではないかと思えてきた。わかりやすいところでは、マズルと眼の周りの黒さ(ブラックマスク)、大きな二等辺三角形の耳だ。さらに目尻の下にシェパード特有の黒点があり、これを我が家ではシェパポッチと呼ぶようになった。ドッグランで見知らぬ人から、シェパードの仔ですかと訊かれたこともある。そう、シェパードでなくシェパードの仔、なのだ。小型犬と中型犬の境目に位置する大きさは仔犬にしか見えない。  あるとき妻が、ベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノアの写真を見つけた。その名の通り、ベルギー原産のシェパードだ。驚くべきは、ひいを拡大コピーしたかのような姿かたちだったことである。ひいは鳩胸で、腹にかけてきゅっと引き締まり、全体的に短毛だ。そしてチビのくせに筋肉質。これらはマリノアの特徴だ。  しかし、だ。マリノアは日本ではきわめて珍しい犬種である。実物を見たことがある人は、どれほどいるだろうか。つまり、どこにでもいる犬ではない。珍しい犬種なら血統書がものを言うから、雑種が生まれるような環境に置かれているマリノアはいないのではないか。だから、他人のそら似だろうと私と妻は大笑いした。偽・チビ・マリノアだ、と。  でもこの犬種が気になるので、だんだんマリノアについての知識が増えていった。胴体の長さと体高の比率が一対一で正方形に収まる、全天候型のダブル・コート、頭頂部が平らである、適度に尖ったマズル、マズルの長さは頭の長さとほぼ等しい、鼻梁は頭頂部と平行、中ぐらいの大きさの眼はすこしアーモンド型、鼻は黒い、首の周囲の毛がやや長い、つま先立ちのような脚、すばっしこくて速力がある。これらはほぼひいにも共通し、成犬になる前の段階のマリノアといったところだった。  このうえ性格も似ている。警戒心が強いうえに用心深い、家族には忠実で優しく深い愛情を示すが他人には打ち解けない、飼い主の気持ちを常に読み取ろうとじっと見つめる眼差しが特徴的。訓練性が高いという点は、訓練をしていない座敷犬なのでなんとも言えないが、良くも悪くもいろいろ憶えて忘れない。  ここまでそっくりだと、ミニチュア・マリノアと呼んでもよさそうで、大型犬のマリノアが小型であることを

女の子といっしょなんだな

 私は体がいかつい上にほぼ坊主頭で髭面のおっさんだから、小学生の女の子を見ただけで犯罪者にされる恐れがあり、視線をさっとそらさなければならない。まして首からカメラを提げているときは、視線がどこにあろうと通報されかねない。これは自意識過剰とか被害妄想でなく、世の男どもが少なからず感じていることだろう。つり革につかまって立っていただけで、目の前に座っている若い女性から痴漢よばわりされたので、何が起こっても不思議ではないと考えざるを得ない。  こうしていても、家を出ればあちこちで小学生の女の子の姿が目に止まる。気分の高揚のしかたや、寂しそうなときの素振りが、ひいに似ているとつくづく感じる。小学生の女の子が犬と同じと言いたいわけではない。犬にも心があり、心は人のそれと似ていると思わずにはいられないのだ。ひいは女の仔なんだな、と。  女らしさなどというものは、時代や国が違えば内容が変わるあてにならないものだ。しかし、闘争より共感を求める点や、雄族に特有のガサツさがないことで、ひいは女の仔らしいと男の私は感じる。これまで身近にいた雄の犬とは、あきらかに違う。野蛮な雄族は雄族なりに、自らの雑さ加減を自覚しているのだ。女から見た男、女から見た女と別物だろうけれど。 「すぐ帰ってくるよ」とひいに声をかけ、片道十分とかからない場所へ買い物に出かけた。いつものことであるし、何か気がかりがあったわけでなく、オカアにわがまま言うなよくらいの挨拶だ。  家に戻ってくると、カーポートにひいのおしっこのあとがあった。平和なものだと玄関に入ると、家を出たときと雰囲気が違う。妻に問うと、ひいが表へ行きたいと言うのでドアを開けたら、私のあとを追うように道に出てずっと心配そうにしていたというのだ。敷地の中では、ひいにリードは着けない。なぜなら、怖がりのひいは何があってもカーポートから外へ出て行こうとしないからだ。人やクルマがそうそう通らない道だからまだよかったものの、危ないところだった。気をつけなくては。  なぜ、ひいはいつもと違う大胆な行動に出たのか。  ここのところ調子が悪い日が続き、私はぐったりしている。体がだるいのもあるが、気持ちがひどく落ち込む。これまでもなぐさめるように寄り添ってくるなど、ひいは私がいつもの私でないことを察していた。オトウは無事に帰ってこれないかもしれない、と気が気ではな

ひいの優しさに泣いた日

 妻と何気ない会話をしていて、急須(きゅうす)はキビス、キビショとも言い、前者は急火焼、後者は急焼と書き、これは古い中国語の音と字から生じたもので、もともと急須とは現在の土瓶のようなかたちの酒を直火にかけて温めるものだった、と説明した。「よくそんなこと知ってるね」と言われたが、このようなどこかで目にしたものが忘れられないのが私の性格だ。こんな辞典的なガラクタが仕舞い込まれているだけなら毒にも薬にもならないが、誰かが関係したできごとや叱責の声や失敗も同じようにありありと記憶の倉庫に不良在庫として残っていて、意図せぬ棚卸しで思い出され苦しみの元になる。  性格とはなんだろう。人それぞれが本来もっている反応や感情や行いの型のことなのだろうが、どうしてこんなに千差万別なのだろう。そして、たぶん多くの人は自らの性格を肯定できないのではないだろうか。胸を張って他の人より性格が優れていると誇る人は、なにか胡散臭い感じがする。誇るまででなくとも、全面的に自分自身を受け入れられる人には近寄り難いものを覚える。  火山灰地にツツジがよく育ち、水持ちがよい土壌で稲穂がたわわに実るように、性格は生まれ持った脳のありかたと関係しているに違いない。  私はMRI検査を受けたことがあるが、画像を見た医師から脳梁が異常に大きく太いと驚かれた。脳梁は右脳と左脳の間に、前から後ろへ連なっている海苔巻きのようなかたちのものだ。ちょんまげが、頭の中にあると考えるとわかりやすい。  役目は右脳と左脳の連絡役で、女性のほうが男性より発達している。私の場合は、女性のそれより圧倒的に長く巨大で、海苔巻きではなく太巻きサイズだ。脳梁が男性と女性の性格差を決定しているとする説は否定されているが、感情的になり理性がまったく働かない男性型の爬虫類的な暴力は、右脳で処理された感情が論理脳である左脳と連絡が滞り暴走するせいだと言われている。また論理を処理する左脳は、どんどん上書き保存をくり返すため忘れる脳でもある。いっぽう、右脳は見たまま感じたままの大量の情報を、ありのまま保存できるブルーレイディスクのような脳だ。右脳で把握したものに左脳がラベルを貼り、また右脳の倉庫に仕舞う。これが過剰で異常なのではないかと、私は自分の性格の根源について思う。  先日、私が列に並んでいると着飾った老女が斜め後ろに立ち、ふらふ