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11月, 2012の投稿を表示しています

犬と会話する話

 犬は人間の言葉がわかるのか。犬と暮らしていれば誰しもが思うことに科学があっさり答えを出し、単語は理解するけれど文法はわからないと結論づけている。でも私には、犬が単語と単語の結びつきを理解しようとしているように感じられてならない。 「ひいは、いい仔だ」の意味を、ひいは自分への評価と理解している。「ひいは、いい仔だから好きだ」には、さらに評価が高まったとうっとり反応する。単純な言葉であっても、ここには文法がある。「ひい」、「いい仔」、「好き」と単語だけつまみ食して聞き取っている可能性が否定できないのはたしかだが、もっと長い言葉にも耳をピンと立てて集中し、幼犬だった頃より理解力が増したことを語彙が増えたせいだけとは言えないような気がするのだ。  もしかしたらひいは、私と妻の会話を聞き取って何を喋っているか大まかに理解しているのかもしれない。というのも、ひいは群れの動向にかなり敏感で見るもの聞くもの触れるものの変化を見逃すまいとしていて、これなら私たちの会話に注意を払い文法らしきものを憶えてもまったく不思議ではない。  このように思うので、日々、私はひいにあれこれ話しかけている。「お座り」、「待て」、「よし」などのコマンドだけでなく、何をどう感じているか、これから何をするかなど、子供に話しかけるようにわかりやすい言葉を選び、具体的に、ゆっくり喋る。日本語の基本的な語順を守る。ひいが知っている単語を主に使い、新しい単語を徐々に加える。  すると、発見があった。ひいは大きな声や命令形より、穏やかなささやきや丁寧な語りかけに反応するのだ。  小便をしたいと訴えてくるので玄関のドアを開けてやったのに、いつまでもうろうろしているだけだったとする。以前は厳しい口調で「ちっち」とコマンドをくり返していたが、これを「ちっちをしなさい。そこがいやだったら庭へ行こう。好きな場所を決めなさい」などと囁くと小便をするまでの時間があきらかに短くなった。  これは科学ではないから、犬が人間の言葉を文法に則って理解している証拠とするつもりはない。ただ、犬は世間から思われているほど愚かではなく、限られた世界の中で暮らしているとはいえ様々なことを把握していて、そこには人間の言葉から得られたものもあると考えざるを得ない。  人間と犬の会話は成立する。もし口と喉の自由が効くなら、ひいには言いたいことが山

首輪をしていないひい

 実家で飼っていた純白の雑種犬ダーリンは首輪を嫌っていた。なにかの事情で外した首輪を着けようとすると、不快そうな表情をして身をよじる。首輪嫌いは終生かわらなかった。対してひいは、首輪に何も感じていないようだ。外そうとしても着けようとしても態度は変わらない。  ひいにとってどうでもよい首輪だが、私には重要な意味がある。  首輪には迷子札をはじめとするひいの身分証がついている。ひいが迷子になったとき、身分証が彼女の命を救う唯一の手だてになるかもしれないのだ。もし夜中に我が家が火事になって、ひいを外に放つのがやっとだったとしたら、みんな揃って寝るとき首輪を外しておくのは危険すぎる。こんなことを考える私は、小心で億病なのだろか。  もうひとつ重要な点は、首輪を外すと別のひいが目の前に現れることだ。  首輪をしていないひいは、飼い主の欲目だろうが美しい。首周りだけの二センチほどの幅の布にすぎないのに、生き物が持って生まれた最善のかたちを首輪は隠してしまう。口の先から尾の先までの流れるような線の抑揚が、なぜか消されてしまう。だから時々、私は首輪を取ってひいを眺める。こうして、ひいの父と母が、祖父と祖母が、ずっと昔のご先祖さまが与えてくれた肉体に私は感嘆する。  それはすこしエッチな感覚かもしれず、端正なヌード写真を見て眼が離せなくなるのに似ている。上等な服を纏っている人体よりも天が与えた裸体のほうが心が揺さぶられ、どきどきしてくるのと同じかもしれない気がするのだ。あるいは飼い犬であるひいの中に、野生を発見してどぎまぎするのかもしれない。  首輪をしていないひいと私の距離は、遠いのか、近いのか、と考えさせられる。首輪が人と犬の主従関係を象徴するものだとしたら、ひいは首輪を外されて私の手から離れたと解釈することもできる。しかし、それでも互いが心を交わし求めあっているなら、むしろ距離が近づいているのかもしれない。こんな微妙さが、曖昧な何かを確かめたいと私に首輪を外させてもいる。  生まれたままの姿のひいと、洞窟の中で焚き火をして暖をとる原始人の私の姿を夢想する。ひいとともに狩りに出かけ、ひいと獲物をわかち、ぴったりくっついて眠る。外していた首輪を元通りにして、この夢想は終わる。そこには眼鏡をかけ服を着た私と、狩りをしたことのないひいがいる。これはこれで失いたくない平穏な日常だ。

ぎっくり腰とひい

 朝、顔を洗おうと前屈みになったとき続けざまにくしゃみが出た。激痛が脳天まで駆け抜け、身動きが取れなくなった。ぎっくり腰だ。このときから一日の大半をベッドで過ごさざるを得なくなった。  寝ていれば腰が楽とは限らない。寝返りを打とうにも体をねじるたび激痛が走る。「ううっ」とか「ああっ」と情けない声をあげて寝ていると、ひいが枕元にやってきてこちらを覗き込む。痛みを堪えてよたよた散歩に連れ出すときはおぼつかない私の足取りなどおかまいなしなのに、しおらしい表情をしている。  クウと小さな声で鳴かれて、腰が痛くて反応できずにいると、じれったそうに鼻先でつんつんと肩のあたりをつつく。「あのあの、あの。動いて」と言っているみたいだ。顔だけでニイーッと笑ってやった。ひいはおもむろに掛け布団に潜りこんできて私の胸にくっつくや、ぐいっ、ぐいっ、とさらに体を押し付けてきた。うとうとしてはっと目が覚めると、いつの間にかひいは仰向けで寝ているやや開き加減の股の間にいて、スウェットのズボンの上から足を舐めている。  ひいよ、そこにおまえがいると腰が痛むんだ。  太ももでひいを押してみた。するとすぐに股の間から出た。この隙に、寝返りを打ち横向きになると、ひいは膝の内側に倒れ込みまた体を密着させてきた。  二、三時間こうしていただろうか。いつまでも寝てはいられないと恐る恐るゆっくり上半身を起こすと、ひいがひょいっと布団から顔を出してこちらを見つめた。 「オトウが動けないから心配だったのか。ごめんな」  ひいの眼は真剣だった。 「ありがとう。ひいのことが好きだよ」  ひいの耳がピンと動きこちらを向いた。 「好きだよ」  眼に安堵の色が浮かんだのがわかった。  このときからひいは「好きだ」の意味を理解したようだ。「好きだ」と言うと眼を細める。  人と犬。なぜ違う生き物がいっしょに暮らせるのか不思議でしかたないが、こんなところに謎を解く鍵があるのかもしれない。