我が家から真西の方角、丹沢の山並みの向こうに見える富士山頂が白くなっても、多摩丘陵の端っこはまだ秋だ。
散歩道に続く家々の庭で柿は色づき、引き寄せられるようにヒヨドリがどこからともなくやってきて居着くいっぽうで、みかんは薄ら青い。気が早いおしゃれな若い女性だけが、体温で熱中症になるのではないかと心配なくらい長いブーツやニットのマフラーで身を包んでいる。
だが日の入りの時刻は日々刻々と早くなり、時計を見て愕然となる日が続く。この暗がりの中、灯油の移動販売車がやってくるがストーブに火を入れるのにはまだためらいがある。
そんなある日、ひいがベッドの布団の中から顔だけを出して寝ているのに気付く。冬がきた、と思う瞬間だ。
ひいのアンダーコートが豊かになり、いつの間にか体がひとまわり大きくなっている。耳の内側も柔らかな毛に覆われ、冷たい風にかじかまないように支度が整う。
こうしたひいの変化が現れたら、私も冬の生活に入る。
豚のバラブロックを買い込んで塩やスパイスに漬け燻煙し、来年のぶんまでベーコンをつくる。
ヨーロッパの森で豚を飼っていた人々は、秋の終わりにどんぐりを食わせ太らせた。それ以前の人々にとって冬のはじまりは、どんぐりで肉づきがよくなった猪を狩る季節だったのではないか。この狩りの先頭に、犬たちがいたはずだ。豚は余すところなく食され、骨の周りの肉や固い筋は細かく叩かれ腸詰めにされ、脚はハムにバラ肉はベーコンにして保存した。
人が洞窟で暮らしていた遠い時代、焚き火の煙を浴びた肉が腐らず味がよくなったことで薫製が生まれた。昔の犬は、この肉を炎の暖かさに身を委ねながら見上げていたのだろう。私が台所で豚のバラ肉を塩漬けにしているのを不思議そうに眺めるひいそっくりの眼で。
スーパーで新鮮な肉がいつでも買え、エアコンで部屋を暖める暮らしを捨て去ることはできない。そんな私が冬になってベーコンをつくるのは、豚肉の保存の如何に生死がかかった中世以前の人々からしたら、ままごとに過ぎないのはわかっている。しかし、ベーコンづくりをかれこれ二十年も飽きずに続けてきたのは、体のどこかに眠っている冬を怯える原始の記憶が目覚めるからに違いない。
ひいは、どうだ。冬の彼女はのんびり屋になって甘えん坊に拍車がかかる。オオカミだった時代から真冬は群れの仲間に密着し静かに凍える季節をやりすごすのが、本能なのかもしれない。太陽が衰える死の季節を生き延びるために。
ひだまりでオカアの話をじっと聞いているひいの眼に、愛の色が宿っている。冬は群れの一つひとつ命に、生の唯一のよりどころを感じせる季節なのだろう。
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