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あるはず

 私だけで買い物に出ると、つい余計なものを買っている。  先日はスーパーにりんごを買いに行って、鶏の胸の軟骨を手に取った。焼き鳥屋でヤゲンと呼ばれるこの部位の、軟骨の歯ごたえと小さな肉の取り合わせがひいは大好物なのだ。ヤゲンに限らず、ひいが喜ぶ様を見たくてお土産を見繕う。それはサツマイモだったり、牛すじであったり、オトウとオカアが食べるものであってもお裾分けが前提だ。  家に戻りヤゲンを水煮しはじめるや、ひいの期待は高まる。湯気の香りもさることながら、直感的に自分の食べものをこしらえているとわかるらしく、物音がしただけで興味津々となって台所を覗きこむ。火から鍋を下ろしテーブルの上で冷ましていると、食べる権利があるとわかっているから、人間用の食べ物であれば執着しないのに、このときばかりはヤゲンの水煮のそばから動かなくなる。  これらひいの大好物はおやつとして与えるだけでなく、いつものドッグフードにトッピングする。もし食事に加えないと、冷蔵庫の中のタッパーに好物が隠されていたのを憶えていて、「あるはずだけどな」と怪訝そうな顔をする。そして、いつまでもドッグフードに口をつけようとしない。 「あとで、だ。いつも食べられると思うなよ」  しかし、あとの楽しみより、いまこのときでなければならないのだろう。私をどこまでも追ってきて「いまほしいの」と見つめる。根比べである。  ひいにとっておいしいものを食べる喜びは、このうえもない幸せなのだろう。そう思うから、私はお土産を買ってくる。だが、ちょっと違うのではないかと気付いた。これは、朝食のとき私が食べているパンの耳をほしがり、静かに足下でお座りしているひいの表情から見て取れた。  食欲だけで待ち受けているのではない。私が私の食べものを分け与える意味をひいは理解しているようで、好きなパンをがっつく様子はなく、愛されていることを確認できてしみじみ満足しているみたいなのだ。オトウが独り占めして当然のものを自分はもらえた。自分はオトウにとって特別な存在なのだ。このように理解していると言って間違いない。  お土産もまた、愛の証なのだろう。  ひいは誕生日を迎えた。前夜祭として昨日はゆで卵を食べ、今日はふかしたサツマイモを食べた。誕生日の意味はわからなくとも、オトウとオカアの気持ちは伝わったのではないだろうか。