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8月, 2012の投稿を表示しています

もう、そのことはいいの!

 寝室の電灯をつけると、ひいはいつも通りベッドの上で熟睡していた。 「これ、なんだろう」  妻の視線を追ってベッドの端を見ると、シーツに小さなシミがあった。シミの正体はわからないが、夜更けにシーツを換えなければならないほどの汚れではない。よく気付いたものだ。  さて寝ようと思ったが、気付かないままならどうでもよいものが、気になりだすときりがない。  寝汗のシミではない。だったら、なんだ。どうも、ひいが関係しているように感じる。ほんの少し小便を漏らしてしまったのか。 「ねえひい、これなんだと思う?」  妻がシミを指差す。  ひいは薄目を開けたまま反応しない。聞こえないふりをしているようにも見える。 「ひいが悪さしたんじゃない?」  妻はシミの横を指でつつきながら言った。  ひいはすくっと起き上がり、シミのにおいを嗅いだ。そしてプレイバウのように前半身を低くし、鼻先でシミの場所から妻の指をどけようとした。それでもシーツをつつき続けると、必死の形相で激しく首を振ってマズル全体で指をはらいのけようとする。 「臭腺液じゃない?」 「臭腺液だな」  間違いなさそうだ。  犬にとって臭腺液が出てしまうのは恥ずかしいことなのだろうか。それとも、寝床には臭腺液を漏らしてはならないもので罪の意識が働くのだろうか。いずれにしても、指摘されるのは相当いやなようだ。  あまりにひいが必死になるので、妻はわざとまたシーツをつついた。そのたびひいは指にいどみかかる。私もやってみた。同じことが繰り返された。  こんなことを続けていたら、ひいがキャンと甲高くも弱々しく鳴いた。  ひいの狼狽して困り果てたさまに、ごめんと詫びるほかなかった。  恥ずかしさや罪の意識だけでなく、なかったことにしてほしいというのは、なかなか複雑な感情の動きだ。もしひいが人間の言葉を話せるなら、私たちとさして変わらないことを喋るのかもしれない。  キャンという鳴き声は、 「もう、そのことはいいの!」  といったところか。  夜が明け、食事と散歩をすませたひいは、ぼんやりソファーに横たわっている。私はひいの気持ちを読み取りたくて、丸くて黒い目をじっと見つめた。そして、胸の内でもういちど「ごめん」と謝った。

傘と棒としっぽ

 実家で飼っていた白い雑種犬ダーリンは、ひいのように臆病な犬ではなかったがたたんだ傘をとても恐れた。木の棒やパイプを上に向けて手にした人間がいるだけで警戒した。  元はと言えばダーリンは、海岸近くにめぐらされた柵の中で飼われていた野良同然の犬たちの一匹だった。いまどきだったら動物虐待で保健所に通報されても不思議ではない場所で育ったのだ。  父が見初めてもらってくるまでのことは、生まれてしばらくして海に投げ捨てられたが自力で生還して飼われるようになった生い立ちや、前の年に生まれた姉ミグの耳を噛み切った逸話くらいしかわからない。このような暮らしをしていたら、人間から傘や棒で殴られていても不思議ではない。  当時としては珍しい中型犬の座敷犬として安穏と暮らし、家族の誰一人としてダーリンを殴る者などなかったが、心と体に染み付いた恐怖はそう簡単に消えなかったのだろう。  頭の上に拳を振り上げられても、ひいは表情ひとつ変えない。  棒を持って行けば、遊び道具がやってきたとわくわくしはじめる。  ひいは乳飲み子のとき兄弟姉妹とともに動物愛護センターに持ち込まれ、他の赤ん坊の犬とともにビールケース大のプラスチックの箱に詰め込まれていた。このような出自でも、Aさんに救われてからこのかた人間に殴られたことはない。人間が殴りかかってくるなんて思ってもいないに違いない。それどころか、そもそも殴られるとはどんなことかすら知らないのだ。  世の中に知らなくてもよいことはある。  顔を洗おうとしてぎっくり腰になった私がベッドで身動きできないまま仰向けに寝て養生していると、ひいがやってきて横っ腹にぎゅうと尻を押し当てたた。そしてこのまま伏せの姿勢になり、しっぽをぱたんと私の腹に乗せた。  腹の上を真一文字で横切るしっぽ。いったいひいが何をしたいのかわからないまま、動けない私はとりあえず眠ろうとまぶたを閉じた。それからずっと腹の上にしっぽの感触があった。  どの犬も、しっぽはやたらな扱いをされたらいやがる。それを私に乗せるのは気を許しているからなのか、それとも「無防備にこうするワタシのことわかって」というアピールなのか。  どんなに家族に溶け込んでいても、ダーリンはこんな甘えかたをしなかった。しなかったのではなく、できなかったのかもしれない。

警戒!警戒!

   外へ出たいとひいがせがむ。  小便をしたいのか、それともおもての世界を見たいのかわからないが玄関のドアを開けてやった。  外へ出ると、まず空を仰いでにおいをかぎ、ゆらりゆらりと舞っているアゲハチョウを目で追っていたかと思うと、顔をきっと道路へ向けた。何かを警戒し、誰もいない道路のほうをじっと見ている。鋭い目と引き締まった表情が、野生のオオカミのようだった。  ひいには何かが見えるのか? それとも何かを感じるのか?  オトウには、白く焼けたコンクリートの道と、無人の荒野のように静まり返った家並しか見えない。  しかし、ひいは一点を見据えたまま動かない。  どれくらい経ったろうか、汗で眼鏡が滑り落ちはじめたとき、ひいは鼻先を地面に向けて辺りをうろうろしてから家の中へ戻った。いつも通り玄関の上がりかまちに前脚を乗せ、私が肉球を拭くのを舞っている。「あんよ」とコマンドをささやくと、右前脚、左前脚、右後ろ脚、左後ろ脚と自分から順に脚を上げた。  小走りに居間へ行ったひいは水を飲んでいる。 「オトウ、なんでずっとこっち見てるの?」  といったふうに小首をかしげて振り返ったとき、もうそこに野生のオオカミはいなかった。黒い丸ボタンのような目は、家で人と暮らす犬のものだ。  どちらも、ひいだ。  どちらのひいが好きかと問われたら、両方兼ね備えているから信じられると答えよう。人間だって、同じだ。

やきもち焼きのひい

   机の前の壁に、実家で飼っていた白い雑種犬ダーリンの写真がピンで留めてある。  ダーリンがテーブルの下に もぐりこんでいる所を腹這いになってシャッターを切ったのは憶えているが、そのほかのことはすべて忘れた。この写真を撮る前に何があったのか、なぜダーリ ンはテーブルの下にいたのか、ほかの家族はどうしていたのか、写真に痕跡は残っていない。それでも、ダーリンが悠々と自由を味わいくつろいでいたのはわか る。瞳がすべてを物語っている。  犬の気持ちは偽りなく瞳に現れる。  昨夜、夕食を終えて二人と一匹でくつろいでいるとき、私は妻の足の裏を指圧した。土踏まずを親指で念入りに押しつつ顔を上げると、ひいがこちらをじっと見つめていた。 「どうしたんだ」と訊いてみた。いつもなら耳をぴくりと動かすところなのに微動だにせず表情も変えなかった。  続いて、妻の手のひらを指圧した。  ひいは私から妻へ視線を移した。ただならぬ目つきだった。  それはかなり真剣に異議申し立てをしているみたいであり、視線以外の手だてで納得がいかないものへ抗議できないつらさのようなものが瞳に凝っていた。膨らみきって、いつ割れても不思議ではない風船。そんな瞳だった。  ひいは指圧を受ける妻にやきもちを焼いていたようだ。  かわいそうになって妻の手から指を離すと、ひいは私に体重を預けてしなだれかかり動かなくなった。ずっと、こうしたかったのだろう。  ひいが嫉妬をあらわにするのは、これが二度目だ。  ひいを動物愛護センターから救い出し育ててくださったAさんの飼い犬ハク君が私のひざの上に乗ったとき、鼻に皺を寄せ低いうなり声をあげた。  あれはハク君たちの群れから離れ堂々と怒れる立場になっていたからできたこと。オカアには恩があり、オカアのことは好きで、歯向かってよい相手ではないのを知っているから、やきもちを焼いても耐えるほかなかったようだ。  なんだ、おまえは。いつだって、かわいがってやってるじゃないか。体中を撫でてやるだけでなく、目を細めてよろこぶ耳のマッサージだってしている。それに、眠るときはいつもオトウにくっついているだろ。  しかし、ひいにとってはそういう問題ではないのだろう。  人間にだって、あんな気持ちになる瞬間はある。まあでも、ほどほどにしとけよ。

3,300キロの想い

 歩き続けてアメリカ大陸をほぼ横断した犬がいる。  車で旅行中だったボビーはミシガン湖の南方のインディアナ州オルコットで野犬の群れに襲われ飼い主からはぐれてから、太平洋岸のオレゴン州シルバートンにある自宅まで直線距離で3,300キロを半年間かけて戻ってきた。1924年のできごとだ。  3,300キロと数字を目にしても、私は距離をまったく実感できなかった。自宅がある横浜から青森まで車で旅行したとき、距離計が往復で1,300キロくらい回った記憶から凄まじく長い道のりだったろうと想像するのみだ。もう一往復しても、3,300キロに届かない。  しかも、地図の上に定規で線を引いたようにはまっすぐ歩けるはずがない。犬はカーナビどころか地図さえ持っていない。3,300キロをはるかに上回る道のりを、ボビーは一頭きりで歩き通したのだ。  やんちゃ者だったボビーは木の根を掘り返そうとして前歯を三本失っていて、馬に蹴られた傷跡が眼の上にあった。この一目でわかる特徴から、後に多数の目撃情報が寄せられた。  疲れきったボビーを家に迎え入れ餌を与えた人がいる。一緒に暮らそうとしたが、ボビーは食事が終わると足を引きづり外へ出て、あっという間に地平線のかなたに消えた。  自宅まであと110キロに迫った地点で、足を血だらけにし眼を真っ赤に腫れ上がらせたボビーは老婦人の介護を受けた。疲労は極限に達していた。このときも老婦人のもとを去り、自宅へ向かって歩き出した。  こうした目撃情報の点と点を結ぶと、ボビーは見知らぬ土地を西へ西へ、ひたすら歩き続けていたことがわかった。  何を想い3,300キロ先の自宅を目指したのか。  飼い主との群れに戻りたい、この一心だったろう。  ひいよ迷子にだけはなるな、すべての犬よ迷子になるな。いまの私は無力だが、震災で被災した犬たちよおまえらのつらさは痛いほどわかる。そして、厄介者とされ捨てられる犬たちの切なさは計り知れないものがあるだろう。  どの犬にも距離などものともしない群れへの想いがある。この想いを裏切れるものではない。