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6月, 2012の投稿を表示しています

なんて不器用な生き物

  「次、どうしますか」  私を見つめるひいの眼が語りかけてくる。  好きにすればいいのにと思うけれど、犬にとってはそうもいかないものらしい。  おまえには、勝手に生きるという選択肢はないのか。  猫なら自分がやりたいようにやりたいことをするだろう。猫に限らず、野原を駆ける鹿も、空を飛ぶ鳥も、やりたいようにしている。  犬は、なんて不器用な生き物なのか。 「好きにしていいんだぞ」 「そうは言いますけど、オトウとオカアとひいの群れですから」  反論というよりも、ひいは釈然としない思いかもしれない。 「ひいよ、オトウがいなくなったらどうするんだ」  ひいは、まだ私を見つめていた。  残酷なことを言ってしまったと後悔した。ひいに人間の言葉がすべてわかるなら、泣かせていたところかもしれない。  庭の木で餌付けをすると、鳥が集まってくる。鳥が集まるのは餌があるからにすぎず、餌がなくなれば鳥は去って行く。これは当然だろう。  しかし、ひいは餌だけのために我が家に居るのではない。ドッグランでおいしいおやつを差し出してくれる人がいても、帰るとなると我が家の車にまっすぐ向かう。  また、犬のボスの代わりに私たちに順位づけをして服従しているわけではないのは、初対面であっても人間と犬の違いをはっきり見極めていることから見て取れる。  人はパンのみにて生くる者に非ず、とマタイ伝第四章ある。犬も餌のみにて生くる動物に非ず、だ。人からの愛を失い、愛を信じられなくなった犬は、ひと目でそうとわかるほどやさぐれる。人間がそうであるように。  そしてはじめから、生きる目的が餌だけではない犬という生き物が、この世にいたわけではない。  オオカミが1万5千年前から人間と生活をともにしながら犬になった。犬は人間の狩りを助け、人間を外敵から守り、狩りの時代から牧畜の時代への道筋をつけ、牧畜の時代となってからは家畜の番をした。人間は犬によって大きく変わった。犬もまた、人間と切っても切れない縁で結ばれた生き物へ変わった。  狩りの手助けをし、家畜の番をし、人間の生活に溶け込んだことで、犬は動物界を裏切ったと言う人がいる。裏切りという言葉が正しいか否かは別にしても、動物界に帰る場所がなくなったのは確かだ。  そうまでして、身勝手で思い上がりが激しい人間なんてものに、犬は1万5千年もの間、愛想をつかさなかった

ひいの世界

 ひいは朝の散歩の時刻を知っている。どんなに早起きをした日も、寝坊をした日も、「散歩はきらいだけど、うんちはしなくちゃならないし」と気乗りしない感じでいつも通りの時刻に私たちの前に現れる。  夕方の食事の時刻も知っている。以前は午後六時に餌をやっていたが、一時間前からそわそわしだすので、押し切られるかたちで特別なことがない限り午後五時が食事の時刻となった。いまは午後四時過ぎにそわそわしはじめて、五時を過ぎると「あの、あの、忘れてませんか」と態度が変わる。これは日が短くあっと言う間に暗くなる冬も、日が長い夏も、まったく関係ない正確さだ。  まるで、ひいは時計を持っているようだ。  その時計は、遅れたり進んだり、電池がなくなれば止まる時計より、よっぽど狂いがない。  ひいが持っているものは時計だけではない。  私や妻が外出から帰ってくるすこし前に、気配を察知して玄関へ向かう。そんな高性能なレーダーも身につけている。  私が外出したときは、こうだ。まず私が身支度を整えはじめることでオトウがどこかへ行くことを知り、なんとなく寂しそうな、しかたないなといった風情になる。私が出かけたあとのひいは、妻によればしばらくオトウの帰りを待っているが、すぐ戻ってこないとわかると寝室のベッドへ行き、私が帰ってくるすこし前に居間などへ移動する。私が玄関のドアを開けると、そこにはひいがいてキュウキュウ啼きながら飛びついてくる。どうも最寄りの駅に到着するかしないかくらいの、足音さえ聞こえないところに私がいることがわかるらしく、これは不思議と言うほかない。  私や妻が帰るまでの時間はばらつきがあるが、「もうすぐ戻ってくる」とわかるのはいつものことだからまぐれではない。  いったい、どのような世界にひいは生きているのだろうか。  私が知らない、ひいの世界を覗いてみたい。ありのままに、見えているもの、聞こえているもの、感じ取っているもの、考えていることを知りたい。 「ひいになってみたい」と言ったら、他人には「なにわけのわからないことを」と笑われるだけだろうけれど。

ぼうっとしてる

 ひいがソファーに横たわり、だらんと投げ出した両前脚の間に顔をはさんでぼんやりしている。眠っているような起きているような。  ひいは退屈なのだろう。  苦髪楽爪と言うけれど、ずいぶん爪が伸びている。  たぶんひいに苦労はないだろうし、苦労しているとしたらかわいそうだ。だから楽をして爪が伸びるくらいのほうが、私としては気が楽である。まあ、ひいの場合、何があっても毛が伸びることはないけれど。  ひいは退屈だとしても、群れがあれこれ慌ただしいのも考えものだ。  三年前の秋、ひいはひどい下痢をした。日頃、粗相などしないのに居間に泥のようなうんちをし、嘔吐と血便もあったので重病の可能性を考えなければならなかった。  下痢が治ったかと思うと、今度は右耳の先にできものができて、その重さで耳が半折れになった。これは犬にしかできない皮膚組織球腫というもので、感染するものではなく、どうして発症するのか未だにわからないだけでなく治療法もないとか。  日に日に皮膚組織球腫は大きくなり、毎日かさぶたから出血した。命に関わるものでないとはわかっていても、完全に治るまでの半年ほどは気が気でなかった。なにせ、「あまりに大きくなって治らないようなら、耳の先を切るほかないかもしれません」と動物病院の先生に言われたのだ。  病気がらみでは、血液検査で出た数値から末期的な腎臓病と言われ、分析ミスとわかるまではオトウとオカアは泣いて暮らした。  ここまではもっぱら私と妻があたふたしたできごとだが、ひいにとって落ち着かない日もある。  ひいは群れの空気を敏感に読む。  私がいらいらしたり落ち込んでいると、これがいけない。「どうしたの」とずっとこちらを見つめ、自分では解決しようのない息苦しさに戸惑っている。このときひいは、私たちがひいの病気を心配したり悲しみを感じているときと同じつらさを味わっているのではないか。  つくづく、ひいに申し訳ない。  だからこそ、何ごともない日はありがたい。  ぼうっとしているひいの傍らで、私もぼうっとする。

しあわせと欲望

 雨が降っている。特別な予定や約束はない。  楽しいかと問われたら、よくわからないと答える。つらいかと問われたら、もしかしたらそうかもしれないと答える。かといって、絶望しきっているわけではない。つまり、いつもと変わらない一日になるだろう。  ひいは私たちより早く目覚め、同じベッドの上でオトウとオカアが起きるのを待っていた。私たちはぼんやりした寝起きの頭でひいに語りかけ、ひいを撫でる。しばし、こうして時を過ごす。  ひいは餌を食べ、私たちは朝食を食べる。  ひと休みしたら散歩に出かける。  散歩から戻ったひいは、ベッドで丸くなる。  これでよいのだろうかと、ひいの飼い主として思う。もっと劇的なできごとを、ひいにつくってやらなければならないかもしれないと。そうしなければ、私たちの群れの大切な時間がもったいないのではないか。しかし、どうしたらよいかわからない。  安直かもしれないが、オカアは料理の片手間に鶏の端肉を茹でてやり、オトウはスーパーの精肉コーナーに鶏の軟骨や牛すじ肉をみつけると買ってきて、おやつを楽しみにしているひいが喜ぶさまを、同じくらいうれしい気持ちで見守る。  丸くなってうとうとしているひいに体をぴったりつけて、ゆっくり繰り返し胴を撫でてやる。ひいの呼吸がすこしずつ早くなり、ふうと大きなため息をつく。満足したのだろう。  しかし、まだまだできることがあるような気がする。  なあ、ひいどうしたらいい。  このように訊かれても、ひいは困るだけかもしれない。  それとも、「アウアウ」、「クウ」、「○※△◎□」と喋ったときは、「私が言いたいことをすぐわかってほしいの」と言うかもしれない。  ひいの声の意味はだいだいわかり、それらはおしっこをしたいなどたいしたものではない。  ひいはこんな毎日でよい、ということなのだろうか。  この焦りに似た不安は、際限なくふくらみ続ける私の欲望を鏡に映し出したものかもしれない。

赤ちゃんとお嬢さん

 ひいの朝の散歩をしようと妻と家を出たとき、さほど遠くないところでトラックのものらしきエンジンの音がした。もしかしたら宅急便の車かな、と思った。  というのも、この日、届く予定の荷物があったのだ。  いつも通りの散歩コースをしばらく行くと、やはり宅急便の車で、ご近所の家へ届けものをしたドライバーに「カトウさん」と声をかけられた。荷物がやってきたのだ。  ひいの引き綱を妻に渡し、私は家へ駆け戻った。  その後、何が起こったか。  妻の話によれば、ひいは家に帰ると決めて来た道を戻りはじめたそうだ。  ここまでは散歩が好きではないひいにありがちなことである。  その次が、あらあらというべきか、困ったものだというべきか、ひいはこの世の終わりのような声でヒイーヒイー啼いたのだった。  虐待していると見られそうで気が気でなかった、とは妻の弁。  ひいは宅急便で荷物が届いたとはわからないだろうから、オトウがいきなり走り出して家に戻ったのが非常事態と感じられたのかもしれない。それにしても、いい歳をした犬が取る行動ではない。  つい最近のことだが、私が部屋着のまま外へ出て、しばらく庭の雑草抜きをして玄関に戻ったら、ひいがやけに切なそうな風情でクウクウ啼いて、まるで何時間も外出して帰ってきたときのようにすがりついて離れなかった。  ひいは私が遠出をするときの着替えなど支度の手順を知っているので、これが仇となって、せいぜい一、二分で戻ってくるはずなのにおかしいと混乱したのだろう。  これがいわゆる分離不安の症状かもしれないが、宅急便を受け取りに家に駆け戻ったときも、雑草抜きをしたときも、ひいのそばにオカアがいたではないか。ひいとオカアは仲がよいし、信頼関係もしっかりしている。しかも、私と妻がいっしょに買い物に出るなどしたときは、その間、留守番ができる。  だから、赤ちゃんともうすぐ四歳を行ったり来たりしているとするほうがしっくりくるかもしれない。なにごともなければ、顔つきからしてがらりと変わってお嬢さんになりきり、余裕綽々、優雅に時を過ごしているのだし。  ほら、人間にもこういう人はいるでしょう。

おまえの母さん

  「おまえの母さん、どこにいるんだろうな」  毎日のように、ひいに話しかける。  ひいは眼が開かないうちに兄弟姉妹とともに捨てられた。もっと母さんのおっぱいを飲みたかっただろうし、母さんにくっついて眠りたかっただろう。  もしかしたら、そんなことは忘れてしまい、育ての親のAさんがひいにとって母さんなのかもしれない。捨てられてAさんの家に行くまでは切ない話だから、忘れてしまっていたほうがよいのかもしれない。  しかし私は、ひいの犬の母さんに会ってみたい。  ひいが千葉の動物愛護センターに捨てられたことを考えると、母さんは千葉のどこかにいるのだろう。仔犬を産んだのなら、郊外か田舎で外飼いだったに違いない。外飼い以前に、放し飼い同然だったのかもしれない。  千葉の動物愛護センターの様子を、犬の保護活動をしているボランティアの人たちが撮影した写真で見ると、ひいによく似た犬がいて、母さんがまた赤ん坊を産んだのではないかと思えてならないときがある。赤ん坊を産むたび、飼い主は仔犬を捨てるのかもしれない。乳飲み仔や育ち盛りの仔から引き離される母さんの気持ちはつらいだろうに。  いずれにしても母さんは、ひいが娘盛りになっているとは知らず、そもそもひいのことは憶えていないかもしれない。あのときひいはまだ犬らしい姿になっていないほど幼く、しかも別れから四年が経とうとしている。ひいと出会うことがあっても、見知らぬ犬がきたと怪しんで吠えるのではないか。  そうだとしても、ひいの母さんに娘は楽しくやってるよと言ってやりたい。  ひいは母さんのおっぱいを存分に飲めなかったぶんを取り戻すかのように、私たちが朝食のコーヒーに入れるミルクの残りをうれしそうに飲んでいる。母さんに甘えたい気持ちがそうさせるのか、人間のオトウとオカアといっしょにベッドの上で寄り添ってゴロゴロするのが幸せみたいだ。  贅沢はさせられないけれど、ひいはとりあえず群れの中に居場所を見付け、小さな家を安住の地にしている。それ以前に、二酸化炭素を充満させた部屋に送り込まれず生きていることだけでも、あり得ないほど小さな確率の幸運だった。  あなたの仔はひかりと名付けられ、ひいと呼ばれ、こうして今日も平々凡々な一日を生きていますよ。  ひいの上に拡がる空は、ひいの母さんがいるところまで続いている。  母さんとひいに、同じ朝、同

ひたすらうれしい

 階段の降り口で、ひいがこちらを振り返る。 「オトウもいっしょに行くんでしょ」  もし私がその場から引き返そうものなら、ひいは階段を降りない。私が階段を降りはじめると、安心した様子でついてくる。  いつものことだが、こんなことがうれしい。  いったい私を好いてくれる者が、この世にどれほどいるだろうか。  このめったにない幸せに、私は救われている。

おいしいもの出てくるの?

 我が家の台所の入り口は二台の冷蔵庫に囲まれている。  ここにある大きな冷蔵庫は人間用、古い小さな一台は自分のおやつ用と、ひいは思っている。  そう思っているのはひいだけで、古い冷蔵庫は大きな冷蔵庫に収まらないものを入れているに過ぎない。でも、ここに「開封後要冷蔵」のひいのおやつが入っているのも事実だ。  だから古い冷蔵庫を開けると、おやつがもらえると思い、さっとお座りの姿勢を取る。では大きな冷蔵庫を開けたとき反応しないかというと、そうではない。じっとこちらを見て、大好物が出てくることを期待している。  大好物とはヨーグルトのことだ。  どちらの冷蔵庫も、ひいにとって魅惑の箱のようだ。  さらに魅惑の箱に囲まれた先も、ひいはおいしいものが出てくる場所と知っている。  たとえばおやつ用に、鶏肉ややげんと呼ばれる鶏の軟骨、牛すじ肉に火を通す場所が台所であることをわかっているのだ。  でも台所でひいのおやつばかりつくっている訳ではなく、人間が肉を焼いたり煮たりするときも、味付けされたものは彼女にはやれないけれど、犬が大好きなにおいが立ち上る。  肉類だけではない。ひいのこれまた大好物のトーストを焼くのも台所だ。だから、ひいはオーブントースターのタイマーが立てるジジジという音とチンという音の意味をいつの間にか憶えた。  こんなときひいは、魅惑の箱と箱の間で眼を丸く見開き、恐いくらい真剣な表情で台所を見つめる。  何かもらえるだろうか、それとももらえないのだろうか、といったところだ。おいしいもの出てくるの? と。  残念でした。これはオトウとオカアが食べるピザトースト。  なのだが、当然もらえるものとひいはテーブルまでやってくる。そして、私はピザトーストのパンの耳をちぎり、打って変わってかわいい顔をつくっておとなしく待っているひいにやることになる。犬にとって肥満は大敵と思いながらも。  ここまでがひいの作戦で、まんまんとひっかかってやっているんだ、と強がりを言いつつ。