ひいは散歩が嫌いだ。 しかし我が家にきたばかりの頃は私と近所の大きな公園に行き、小高い富士山型の丘を駆け上ったり、駆け下りたりするのを楽しみにしていた。いまでは、その公園に行くことすらいやがり、私のひいと駆け回りたい欲求は満たされなくなった。 ひいが散歩ばかりか家の外を嫌うようになった理由ははっきりしないけれど、ある夕刻、家を出てしばらくしたところで荒っぽい運転の自動車とすれ違ったことが関係しているように思えてならない。 その自動車は近所の人のもので、散歩に行こうと玄関を開けたときからこの家族が激しく喧嘩する声が聞こえていて、これにひいはおびえていた。家族喧嘩の末に、むしゃくしゃするから自動車を出してどこかに行こうとしていたのだろう。アクセルを気ぜわしくふかし、道の隅にいる私と妻とひいにおかまいなしにすれすれの所を通っていき、あれではひいでなくてもトラウマになるというものだ。 このときの怖さは単に自動車に轢かれそうだからというものではなく、運転している人の怒りなどの感情の昂りがひしひしと伝わってきたことが大きい。ひいも同じように感じたらしく、このできごと以来、あのときの自動車のエンジン音を嫌うだけでなく、その家族の足音を憶えていて外を通りかかっただけで吠えるようになった。 ひいは、このほかに奇声を上げる子供と騒がしい若い人を嫌っている。つまり興奮状態にある人間が恐ろしいらしい。 ではひいは家の外や、家の外で出会うものは何もかも嫌いかというと、そうでもない。Aさんの元から巣立った犬たちが集う同窓会では、ドッグランを縦横無尽に駆け回り、この場にいる飼い主たちを怖がることはまったくない。飼い主の家族の中には子供もいて、大人だって楽しげに歓声をあげているのにである。これは犬好きばかりが集まっているからなのか、その場の雰囲気がよいせいなのか不思議だ。 雰囲気といえば、ひいは敏感に群れの雰囲気を読み取る。前回の同窓会は天気が崩れはじめたので予定より早く解散となったのだが、人間たちが「そろそろ帰りましょうか」といった素振りを見せるや、たくさんいる犬のうちひいだけが憂いのある声でクウクウ鳴き出して、三々五々とみんなが帰って行っても鳴きやまなかった。どう見ても「ヤだ、ヤだ。みんなともっとここにいたい」と訴え、願いがかないそうにないのでひどく悲しんでいる様子
この読み物は「ひい」こと「ひかり」の我が家での生活について書いたものです。ひいは乳飲み子のとき千葉の動物愛護センターから救われた犬で、2008年の4月(生後6カ月時)に当家の住人になりました。